クライストチャーチ(ニュージーランド)大地震から6年後の復興状況を体感してきた話
Gondyです。
2011年の3月。
皆さんもご周知の事と思いますが、原発のある福島を中心地として、
東日本に未曽有の大震災が襲いました。
津波によって多くの方が被害に遭ったのは、
まだみなさんの記憶に新しい事かと思います。
そして、それを遡る事約半月。
当地震によって日本人28名を始めとする、
総勢185名の方が犠牲になりました。
当時は、2月という時期もあって、
大学生を始めとした留学生が多く滞在しており、
犠牲になってしまった方の中には留学生が多く含まれていたようです。
亡くなられた方には、心よりお悔やみ申し上げます。
私は2017年にニュージーランドに留学していたのですが、
その際にクライストチャーチにも1週間ほど滞在しました。
当記事では、その際に見た復興状況のリアルを紹介していきます。
クライストチャーチの現在の復興状況
結論から言うと地震から7年経った今でも、
クライストチャーチの復興はあまり進んでいません。
クライストチャーチという名の通り、
街のシンボルとなっている大聖堂があるのですが、
その大聖堂は崩れたままになっていました。
かろうじて半分ほど原形をとどめていましたが、
その姿は廃墟そのもの。
大聖堂の周りには立ち入り禁止のテープ貼られて、
壁の隙間からかろうじて崩れかかった大聖堂を見ることができる程度です。
地震から6年たったのにもかかわらず、
崩れ落ちた瓦礫すら片付いていない姿に衝撃を受けました。
未だに何も復旧が進んでいなかった状況に、
写真はあまり撮る気がしなかったので・・・ありません。
続いて街の中心地について。
街としてひとまずの機能を果たしているように見えます。
(街の中心地にある門)
しかし、中心地から1kmほど外れた所に目を向けると、
復興が進んでいない状況を確認できます。
そこは、以前商業用の建物や学校が密集していた地域。
この商業地域の崩壊のせいで、
5万人の失業者が出たとも言われています。
現在その商業地域のあった所では、
仮設のフェンスで区切られた工事区画で、
工事用の車両が往来して地ならしをしています。
地ならしをしているという事は、
復興の段階としては初期の初期です。
瓦礫撤去⇒生地⇒造成⇒杭打ち⇒立ち上げ
という復興の段階において、いまだ”生地”の段階というわけです。
以前のように建物が立ち並ぶのは遠い先でしょう。
崩壊した商業地域の一部に
生地が続く元商業地域の一角、
以前語学学校があった場所に、小さな慰霊碑があります。
地震で亡くなった方を祀るための慰霊碑です。
日本人数名が亡くなったことも記載されていました。
今では更地となっており、
学校があったという事は想像もつきません。
目標をもって留学に来た未来のある学生が、
運悪く地震にあってしまいこの場所で亡くなった事を思うと、
胸が苦しくなりました。
本当に無念だったと思います。
心からお悔やみ申し上げます。
6年前の大地震を引きずる街に、新たに誕生した教会
崩壊した商業地域の少し外れに、
こじんまりとした教会があります。
その教会の大部分はダンボールでできています。
もちろん、引っ越しで使うような茶色いダンボールでなく、
雨にも耐えるような強化ダンボールですけどね。
この教会は日本人が設計をしたようです。
私が教会のスタッフに日本人という事を告げると、
非常に喜んでくれました。
「今日も朝に、たまたま設計者の日本人がきていたんですよ」
と言うと、教会のスタッフの方は、
当時の建物が建つ様子を細かに語ってくれました。
この仮の教会は、日本によって無償で建てられたそうです。
遠く離れた地で活躍している日本人の話を聞いて、
私も嬉しくなりました。
クライストチャーチの街全体として
1週間の滞在の中で、クライストチャーチの街全体を見る事が出来ました。
この街は、まだ6年前の大地震を引きずっています。
所々で復興の兆しが見えますが、まだ街全体が暗い雰囲気です。
実際、クライストチャーチに行った他の旅行者も
同様の印象を感じたと言っていました。
ニュージーランド第3の都市として、
活気を取り戻し、観光客が多く来ることで、
街全体が盛り上がってほしいと感じました。